先日、浜松市美術館に石田徹也展を観に行ってきたダイスケです。
石田徹也さんの絵は1999年を境に作風が変わるのですが、私は1999年以前の作「社長の傘の下」と「兵士」に魅了されました。
また、北川民次さんの「雑草の如く」にもとても興味を惹かれました。メキシコに滞在していただけあり、アステカ文明で描くような目が印象に残りました。
それでは本題の『紳士服の歴史』に入りたいと思います。
現在の紳士服が、男のユニフォームのように着られてから130年以上経ちます。
背広の起源については色々と諸説がありますが
・ 背部が広い服というところから、この言葉が出来たという説が有力なようです。燕尾服やフロックコート、モーニングコートのように背中の部分が4つのキレで出来ているのに対し、背広は2枚のキレで仕立てられているからです。
・ また一説には、Savile Row(サヴィル・ロウ)からセビロになまったという説もあります。
・ もう一つには、宮廷服や官服に対して市民の服、つまり、Civil Wear(シビル・ウェア)からセビロになったという説もありますが、これはあまり当てにならないようです。
紳士服の歴史を大雑把にとらえてみると、軍服から始まり、それが平常服となり、時経って礼服として服装昇格するのが原則と言われています。
さて、今日の燕尾服(テールコート)が現れたのは1810年頃だと言われているので、1840年頃に出始めたフロックコート(プリンスアルバート)よりも少し古いとされています。
そしてフロックコートの前をカッタウェイしたのがモーニングコートで、これは1897年頃とされており、現在のように礼服化したのは1910年頃からです。
ズボンに関しては、ズボンの幅が広くなりトラウザーズとなったのは1830年頃とされています。
※なお、ズボンという言葉はフランス語のジュポンからきた言葉のようです。また、パンタロンはキュロットに対して長ズボンのことであり、イタリアの喜劇俳優パンタローネからきたものと言われています。
それでは現在のように上衣の丈が短くなって今日の背広の原型であるLounge Suit(ラウンジスーツ)になったのはいつごろかというと1850年頃であり、アメリカのSack Suit(サックスーツ)は1880年代です。
つまり、現在の紳士服の原型は1850年代から1870年代に整えられたものと思えば間違いのないと言えそうです。
最後に1920年代のギャング華やかなりし頃の映画『アンタッチャブル』、アラン・ドロンとベルモンド共演のフランス映画『ボルサリーノ』、1930年代の名映画『俺達に明日はない』は衣裳考証からいってもすばらしいので、そういった視点で観るとまた違った面白さがあると思います。
浜松市のオーダースーツ【テーラー新屋】はGod Father PartⅡのヴィト・コルレオーネの若かりし頃の服装が素敵だと思います。
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2009.05.21
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久しぶりに映画『さらば青春の光』を観たダイスケです、こんばんは。
映画のワンシーンでジミーがスーツを出来るだけタイトにして欲しいとの要望に対して、仕立て屋が「これ以上細くしたらはち切れてしまう」といったシーンが出てきます。
映画を観た当初は何も感じませんでしたが、いま、テーラーとしての立場から観ると仕立て屋の気持ちがよくわかります。
仕立てた洋服は10年、20年と着用出来るように仕立てられています。流行に囚われすぎて、流行が過ぎ、クローゼットの肥やしになることはテーラーとしてまことに残念でしかたありません。
前置きが長くなりましたが、本題の【デザイン】スーツとは2【アート】について考察してみたいと思います。
テーラーも含め、デザインを専門とする職業が一番犯してしまう過ちがあります。
それはなんだと思いますか?
前回【デザイン】スーツとは1【アート】でも書きましたが、むやみに賑やかに飾り立て美しく製作しようとすることです。
『デザイン』が実用のためのものを作ることである以上、実用の面の掘り下げが、いかに深く確かになされているかが問われるべきだと思います。
つまり、省略こそがデザインの本質であると言えると思います。
言い換えれば【なんにもないデザインの美しさ】それこそが最高の仕立てであると言っても過言ではないと思います。
実用機能を最大限にするためには、実用機能以外のもの”装飾や第二義的”なものを削除し、純粋に機能のためのものだけを追求し、高めることがデザイナーの使命だと思います。
とは言っても、余分なものを取り除く作業には相当の熟練が必要になってきます。
本来要求される機能がなにかを見極め、省略しなければならないものと、ぎりぎり残さねばならないものとを峻別するには相当の技術が必要となってきます。
つまり、省略こそがより高度なデザインへのアプローチの姿勢となるわけです。
『デザイン』とは美しさを求めて飾り立てることではなく、むしろまったく逆の方向にこそデザインの本質があるような気がします。
最近の既製服には、不用意に付加されたデコレーションが、せっかくの美しさを台無しにするのみか、大切な機能までも阻害してしまっています・・・
ダンディズムとしての称号「ボー」(Beau)の異名で知られたボー・ブランメルことジョージ・ブランメルは
『街を歩いていて、人からあまりじろじろと見られているときは、君の服装は凝りすぎているのだ』という名言を残しています。
この名言は現代でも通じることではないでしょうか?
浜松市のオーダースーツ【テーラー新屋】では"Fashions fade, style is eternal"(流行に流されない、確固たるスタイルを持ったスーツ)を仕立てています。
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2009.05.15
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今年は浜松祭りに参加したダイスケです、こんばんは。
久しくお祭りには参加していなかったのですが、楽しい3日間を過ごすことができました。
さて、今回の本題である『デザイン』と『アート』についてですが、
『デザイン』という行為が美しい色や形を作り出すことであり、それは『アート』もしかりで共通事項も多数見受けられます。
しかし、『デザイン』という言葉はどことなく『アート』とはまた少し意味の違うものとして使われています。
では、デザイナーとアーティストの違いはどこにあるでしょうか?
テーラーは決してアーティストではなく、あくまでもデザイナーです!
そこで今回はデザインの本質について考察してみたいと思います。
私が思うに『デザイン』とは、みずから『アート』と一線を画しており、
そして、アートではなくデザインである為に最も重要な点は、その作り出そうとするものが、お客様の生活の中で実用に供されるものであるかいなかと考えます。
最近は様々なデザインのスーツを見受けますが、いたずらに外観的な形の面白さや色彩の美しさ、目新しさなどにのみとらわれてしまっているような気がします・・・
『デザイン』がデザインであるためには、本来の実用目的を十分に果たすのに必要な機能性が必要不可欠です。言い換えれば衣服は人に着てもらうことを前提に仕立てることが出発点になっていると思います。
『アート』は本質的にはアーティスト自らの内面を表現しようとするもので、自己顕現、自己訴求によってなされるものであるように思います。
一方、『デザイン』は自己というよりも、むしろ他人の欲求を満たすことを目的としています。
つまり、アートとは売ることよりも創作することを主目的にしますが、デザインは売り物としての商品を仕立てることを目的とする製作作業であると言えます。
あまり詳しくないのですが、一例を出せば、飛行機がその典型的な例だと思います。
飛行機の素敵な流線型は決して格好良く作ろうと思ったのではなく、空を飛ぶのに適した形【機能美】を追い求めた結果、その美しさに多くの人々を魅了するのだと思います。
浜松市のオーダースーツ【テーラー新屋】では、先生の受け売りですが、マネキンに着せて格好の良いスーツではなく、お客様が袖を通してはじめて、その人に合った【機能美】を備えた格好の良いスーツをお仕立ていたします。
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2009.05.06
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